昭和44年10月29日 朝の御理解
御理解 第92節
「神は一体じゃによって、此方の広前に参ってからというて別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはなぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の遅い早いにかかわるぞ。」
これはお取次ぎに従わせて頂くものに対する、こりゃもう大変厳しいご理解だと思います。けれども最近言われます様に全信、信者が取次者と言う様なあの表現をされますですね。お道の信心をさせて頂く一人一人が取次者だと、と言う様な、ま見地から頂かせて頂くと、守り守りの力とこう、是は教会を守りをしておる、いわゆる取次者ということでしょうけれども、これをまあ商店でいうならば、そのそこの店主の、ね。
神様の御商売と言う風に言われます。神様がご主人ならそこの主人は番頭さんだと。支配人だと言う風に言われます。ですからその支配人如何によってです、そこの神のひれいが違う。神様のひれいおかげが違うと言う事になる。氏子が最後に早く起きると遅く起きるととは氏子が参詣の早い遅いに関わるぞと、言う様なところは店主である、そのその店を支配させて頂いておる、ま支配人ですかねの力量いかんと。ね。
によって氏子の参詣の早い遅い、お客さんの例えば客筋がよいとか悪いとかと言った様な事を申しますが、その客筋に関わるぞと。そこのいわば店主が神格化あって立派であれば、やはり立派なお客さん、筋の良いお客さんがお店に来て貰う事が出来るぞというふうにもここを頂く事が出来ると思うですね。もう十何年も前まだ、椛目の時代にそれでもやはり御本部参拝親教会一緒にさせてもらいよりました。
もう椛目の信者というと何か特別な見方をされておった時代なのですね。あれは長崎県の何とか、何とかという教会のと一緒でした。したらそのその列車の半分は椛目時代の御信者さんが乗っておる。半分がいくつかの教会が乗っておる。あるその若い若いというがまあ先生方がですね、非常にその当時の椛目時代のことを悪く言いよなさったです。それを黙って聞いておられた、もう年をとられたその先生が、最後にまああんまりその悪口を言うとるもんですから。
まあ聞き苦しいと思われたんでしょうね。「あんた方はそんな言うて話、言よるけれどもね、あちらが乗っておるこの椛目の御信者さんという人達の姿を見て見なさいち。姿を見ればね、そこの信心が分かるち。よくお道の信者は行き届かんとか、ここの信者はというてその信者が、行き届かんとか出来んとかと言う様な事をよくいう人があるが、自分自身が出来ておらんという印なんだ。
良い信者が出来るも出来ないも、そこの先生の信心いかんだと」言う意味の事を言われたからもう一言なく鎮まったと。それを久留米の野口さんか誰かがその横に掛けておられて、それを聞いたというて話されたことがあるんです。結局守り守りの力。ですから是をならま商売人の家で言うとですたい、ね、あちらの店は中々客筋が良い。こっちは客筋が程度がうんと落ちると言う事はですね。
その店の格と言う事は、そこの主人の、私は人格による事だとこう思うです。人格というのも矢張り、それだけそこの、主人が立派だから、立派なお客さんが差し向け、頂かれておるだとこう思うのです。ね、だからそういう風に頂きますと、ここんところは、取次者という事だけではないと、いう風に頂かなければならんだろうとこう思います。ね、結局守り守りの力。
そこで守り守りの力によってひれいが違うのぞと、神様のひれいというのは、神様の勢い。神様の勢いというものが変わって来る。守り守りの力と。そこでその守り守りの力を受けると言う事は、なら皆がひとつ守り守りの気持ちにならなければいかん。皆がその全信徒取次者と言う様なね、気持ちで銘々が守り守りの気持ちにならにゃいかん。神様の思いを知っておる者という自覚に立ってです。
( ? )その守り守りの力によってとこう仰っておられる、その力を受けなければいけない。どういう信心させて頂いたら力が受けられるか。毎日毎日お参りさせて頂く。毎日毎日お参りをさせて頂いておるから、力が出来るという事じゃない。愈々言うならば本番と言った様な時にですかね、おかげをいわば受けない人があるんです。是は私の知っておる方に、ご主人が非常にもう強がりを言い、強がりというのは口やかましい、?口やかましい人です。
その人の奥さんというのは非常に大人しい。もうどこにおんなさるか分らん位に大人しい。よう働く人なんです。ところがですね、子供さんがそのまだ幾つだったでしょうかね、11,2、位の時に交通事故で亡くなられた。即死でした。その時にそれをそのお母さんは、自分の出ておられる田の中から見ておられた。そしてそのそれをまた見た人達が話しておる、はあちょっとあのおばしゃまが。
あげな度胸があるちゅうことは、知らじゃった、見直した。ちゅうて皆、近所の方達がそれをいうて褒めており、まあそれはしておりましたがですね、そのもうある意味ではばらばらになった体をひっかかえてですね、そして自分の家に連れていかっしゃった。普通のものじゃ出来る事じゃないですよね。まあ一、二町位ある所。そして家にそのやかましいお父さんが見なさったと、お父さんがそれを見てから腰抜けちから、腰の抜けちからですね、立ちきらんかったそうですよ。
それはやっぱ本当その腰抜ける、あの腰の抜けるちゅうことはやっぱ本当だというてから話しておりましたがね。そのあんまりびっくりしてから腰が抜けた。ご主人の方が、所がそれ見たらお母さんはひっかかえてそしてもう、その運転手さんはもう親戚の方が来てからたたきなさったそうですたいね。それはもう居眠り運転ですまさしく。所がそのお母さんが来てね。
この人もあんたしこうと思うたり、殺そうと思うてしちゃなかっちゃけん、家はそげな事はして下さらんな、とにかくまあこっちあがって御飯どん頂いてくれんのち言うちから、ご飯の用意をさしちゃったそうです。もう普通ならもう本当におとなしい方なんですよ。ですからね、そういう時ですね、そういう時に是はまあ、信心とは全然関係ないことですけれどもです。
本当にあの愈々の時に腰を抜かす信者が多いと言う事ですよ。だからそういう時に力を受けるんです。力というのは。私昨夜御夢を頂いておりましたが、それが気持ちの悪い御夢でした。私共がまだ20代の若い青年時代の様な感じです。とにかく三人でその友達の( ? )も分からん。三人である家の前をこう通りよった所、その家の中からもうそれこそ、異様な悲鳴が聞こえて来るんですよね。
そしたらその三人の内の二人がもうびっくりしてから、ズイ-とその逃げ出したんですよ。私もその後からもうびっくりしてから、急いで逃げよるとですもん。そしてちょっとこう坂のごたる所登らなんかじゃん。それがもう先に上りよる奴のあのおうぎ?を掴まえちから、後ろん奴がこう俺が先に登るちごと逃げよるです。私は自分がその( ? )その姿を見たときにですね。
もうこん奴どんばかりは、もうどうした奴じゃろうかと思いよる。自分が(?)是はいかんと思うてからですね、それからまた引き返してからもう恐々とまた、その悲鳴を聞いた家に行っておるというお夢でした。そして行ってみた所がですね、その家の半分がですね、丁度水害でえぐられた様にその、もう水害で荒らされた家がありますよね、もうそういう状態の家の所へ私が行っておるというお夢だった。
私はそれ夢が覚めてから、あれは二十歳時代の青年時代の時分じゃったが、今ならどうだろうかと私はこう思わして貰った。他んもんはそこを逃げよる。私もだからそう連れられてからやっぱ逃げよるとです。やっぱえすかったですたいね。それでもあんまりその逃げ方がその、おかしかものじゃけんですね。おかしかというかその、それを真にせまってるんですよね。御夢の中では。
とにかく早うにげ出さにゃごて関わり合いに会うといった感じですよ。それでまだ先に上りよる奴のこうしてこう上着を握ってからですね、こうやってからあの引っ張ってから後ろんとが上がられん登りよった。私もそげな風で登ろうと逃げそこまで来たばってん、あんまりなんじゃから、やっぱはっとこう思うてからですねこげなこっちゃいかん。どげな事かいっちょ分からんからというて気持ちでこう帰っていきよるところ。
そしたらですねもうその、私の口から出るのが、あの磯節の文句にですね「波の背の背にどんと打つ波は」というのがありましょうが。「皆(?)の度胸定め」ともうそのあの、が私の口からこう突いて出るようにそのあるのですよね。ははぁ本当にその私共がその、それこそもう「波の背の背にどんと打つ波」そのものが、あなたの度胸定めだということなんです。ね。
だから結局そういう時、に腰を抜かすか落ち着いておれれるか、そこを信心でいけれるかというそういう時にですね、力を受ける。ね。ですから日頃信心の稽古をしっかりさせて頂いておってです、そういう時に腰を抜かさんですむ信心。そういう時に、ね、もしこれで一徳受けるぞと言った様な私は度胸というかね、信心度胸と申しますが信心度胸が定まらなければいけない。
それが皆あなたの度胸定めだと、皆それがあんたの度胸定めだと、決して困った事もなからなければ、難儀な事でもない。その事が力を受けるんだ。度胸がでけるんだというわけなんですよ。守り守りの力によって神のひれいが違う。ね。なるほど私共自分の事を振り返ってみる時にです、やはりそう言う所を通らせて頂いて、ま恐々ながらでもそこんところを度胸定めでやっとかっとじゃあるけれども。
合格してきたという感じがいたします。そこから逃げようとしていない。ね、そこを避けようとしとらん、ね。そこを信心で取り組ませて頂いてどっこい、ね、槍でも鉄砲でも持ってこいと言った様な度胸が段々出来て来たというふうに思います。だから先ずお互いがです、力を頂かなければならない。愈々の時には本当にままよと言う様な度胸。ままよと。ね、そこに私十二分の徳というかね。十二分の徳を受けようと思えばままよという心を出さねばならんと仰る。
ままよとは死んでもままよの事だと仰る。ね、そういう私は信心の度胸というものが定まった時に頂くのが力だとこう思います。そこんところが力なのですから、なら教会教会であってもです、なら信者がどういう難儀な問題を持ち込んでもです、ね、それはどうするかというて、先生自身が慌ててござるといったような教会では、矢張り人は助からないと言う事になる訳。それを例えば日頃何のために信心しよるか。ね。
こういう時に力を受けるのぞ、お徳を受けるのぞ、と言う様に先生から言われたら、それで度胸が定まったと言う様なお取次ぎのされる所の先生なら、必ずおかげが受けられるだけではなくて、力も受けられる事だと私は思いますね。銘々の上においてもそうです。いわば慌てふためいて、それこそ腰を抜かす様な信心では力は受けられない。力がなければです、その力の範囲ですからね。
例えば集まってくる。だから私は普通一般では、お導きということがよく、ね、信心の一番大事な事はお導きだとさえ言うておる人があります。お導きの御用が出来なきゃと。けれども、私はそれを申しません。もうとにかく自分がおかげを受けたらね、あの人に伝えなければおられんのが人間です。自分が良い薬を飲んでその薬が効いたらです、同病の人があったらこげな薬ばいっちょ飲みなさいというて、やっぱ話さなければおられないのですよ。そうでしょうが。
ここの場合なんかみんなそうです。ここでおかげを受けたから、そのおかげを受けた事を話すからお導きが出来ておるのです。ね。ですからその、その人が助かるだけの力というものが、ここになからなきゃならん。ですから例ばなら、私の力が百人力なら百人力の力を与えられておるとするならば、あの私が無茶苦茶に、はあ、お導きしなさい、お導きしなさい、新しい信者を獲得していきなさいと言うてなら、途端に百五十人になったといたしましょうか。
その50人のものがどこかで漏れなければならない。私は百人しか持てんのだから。ね。ところが神様がこちらの力が付き次第、いわんでも。もう百人力のが百十人力になったと神様が認めて下さるときに、新しい信者が参ってくると私は確信しておるから、ね、参って来た人をなら度胸を定めて、私はお取次ぎが出来る助かる。私の力で助かる私がこの人の難儀を持ってあげられれる、というその確信が出来て参ります。
だから銘々の上にもその事がいえるとこう思うのです、ね。今何というても宣伝の世の中だと言われるくらいですからね。なるほど宣伝によって大変売れ行きが変わってくるんです。宣伝を止めたらぴたっと止まってしまうといわれる位ですね。売れ行きが。ね。ところがその薬飲むだんじゃないけれどもその、例えばそげん効かんでちゃ、もう効くごたる風に言う。宣伝しちゃる。
だから宣伝につられて宣伝を一生懸命にしておる時にはですよ、だからよく売れておるけれども宣伝をちょっと止めたら売れ行きがぴたっと止まってしまう。実力がないからだ。本当にいわば効かんものを効く様に見えておるだけの事。だから只売らんかなというというだけなら宣伝でもよいでしょうけれどもね。本当のお客さんを獲得して行く為にはその例えば商品なら商品そのものが、立派なものでなからなけらにゃいけん。
だから実力を持った例えば商品と。ならば宣伝をさようにしなくてもです、ちゃんといついつまでも続いておるです。そして本当にその薬その薬を頂いた人飲んだ人がです、この薬は素晴らしい、この薬は効くというて口伝に伝わっていくという宣伝でなからなければね、本当の力にはならん。ね。ただ目先の宣伝力だけで売ろうとするような生き方では、おかげにならん。宗教でも同じ事。
それこそなり物入りで宣伝しておる宗教がある。人さえ獲得すりゃええというのがある。けれどもそれで一人一人の信心を見た時に力もなからなけば徳も受けておるおる風ではない。そういう意味で金光様は宣伝下手だと金光教はと言うふうな事を言われますけれれども、確かにそうだとこう。また私はそれをです宣伝したのではいけないのだと、ね。ここに私の力が出来さえすりゃ、力が出来た時は神様が集めて下さるんだと。
力が出来さえすりゃここに信者が助かる。助かった信者がとにかく一遍お参りしなさい。私はこうこうだったと言う事になる。だかお導きをせろお導きをせろといって、皆さんに私がいかに宣伝してもです。お導きをしたけれど助からなかったじゃったら、一遍皆が参って来るけれども後は続かん。是では私はつまらん事である。是は自分の力というものを知ってるからなんです。ね、
ですからその力をそんならばというてなら、もう是でよいと言う事は決してないのですから、ね。百人より二百人も参って人がた助かる方が有り難いのですから、そんなら200人の200人力を頂かせて貰う修行をさせて貰わなければいけない。それはただ一生懸命神様に向かって拝むというだけでの修行ではなくてです、ね、やはりこうやっておかげを頂かせて頂いておるうちにです、もうこれこそお前の度胸定めだと言った様な事が起こって来るんです。
この頃からも末永さんの友人で、またその従妹にあたるという人がもう、こっちその、全然ただ話を聞いたというだけでここで、そのここで修行をしたいというてから、親とその末永さんの友達を連れてきた。中学校の先生までしたという人らしいです。何も言わん。ただ信心好きでちょっと霊能者ですね、いろんなそのお知らせを頂くと言った様な、いう事だけしか聞いていなかった。それでまあ参りました。
もう私あくる朝の、御祈念の時に出て来るだろうかと、思いよった所が出て来とりませんもん。そしたら歯が痛いとか、なんとかで出て来なさらんというて、ああそうかと思いよった所が、まあ皆んな御祈念がすんでしましたところが、どてらを着ながらこうやって来た。もうそして酒の匂いが、ぷんぷんしよる。だからあんた、疲れておるから一時休めと、というて休ませた。
後で話を聞かせて頂いたら修行生の控えに光昭と末永さんと三人で休んでおる。もうまた、押入れをこうあけりゃあ、あんた御酒何十本と入っておるもんじゃけん、それば引き出しちゃ飲み引き出しちゃ飲み、ここ一日二日じゃったかね、三本くらい飲んどる。(笑)それけんこうやって言うて来たから、よかよかほうからけときなさい。ね、それから丁度、そのまま月次祭でした。
それからもう朝のご祈念で、(?)私のご祈念が始まって、私が一緒にご祈念しておる間はどうもなかです。それからいまからもう、御祈念が始まるちゅうごとなるともうあそこから、いびきがぐうぐう聞こえてくるとですたい。その頃はもう飲んで泥酔してしまってる。ね。けれどもそげな者でもこげなふう困るけんはよ返しなさい、とは私これから先言いませんでした。
神様のご都合じゃからそれこそやはり、度胸定めだと。一言も言わなかったけれどにはです、そのとにかくあんまりその、酔っぱらって分かりませんから、共励殿にあの連れてって休ませておったそうですけれども、月次祭だからというので、向こうのあのなんちゅうですか、あの蔵の二階に休ませた。そしたら夕方おんなさらんですよち言うてきた。ね。それからそのこの人の友人の所にだけ、こうしていないという電報だけ打っておきなさいち言うてから、電報を打たせました。
そしたら明くる日、向こうから電話がかかってきてから、熊本の人でしたから、熊本までやっぱ、あの、タクシーかなんか拾うて帰ったらしいですよね。もうそれっきりですけれども。そういう時にそれがその礼儀になるとかならないとかではないですけれども、やはり、度胸定めですよね。「末永さん、あんたばっかりは(?)こげな、黙ってここに修行に入れちから、もう」ち(笑)いうごとなかですよね。
矢張り一つの神様のお試しじゃなかったじゃろうかと思います。毎日一晩にあなた一本足らんなら、又二本に手を掛けるちいうごたる、ちょいととんでもない事ですよね。修行に来ておってから、あなたお酒飲んで引っくり返して帰っておる。そう言う様な場合でもですね、もうその矢張りとんでもないと言う事ではなくて、それをまあ所謂どんと打つ波を、それを自分の度胸定めとしてまあ、頂かせて貰える様な信心が望まれるわけ。そういう時に力が出来る。
そういう時に力を受ける事が出来る。100人力が110人力に20人力に進んでいく。ね、進んでさえいきゃその力に応じて必ずおかげが受けられる。日に10人しかお客さんがないという家にの人がです、ね、力を受けたら必ず20人のお客さんを差し向けて頂く事になってくるでしょう。宣伝してさあお客さん来て下さいという宣伝をしてから、来てもろうたんでは本当の事ではない。
来てみたけれども、それだけの実力の無い店であったら、やっぱ美味しゅうなかった、食べ物屋なら、美味しゅうなかっただろう。薬屋なら効かじゃったという事になるのじゃないでしょうか。宣伝のことはない。やはり実力を実力、いわば力なんです。実力というその力を銘々が受けなければならん。その銘々が力を受けるそのチャンスというのは、いつもあるのじゃない。
いつどの様な事が起こっても、驚かんですむだけの、日頃の信心をさせて頂いておる時です、おって初めて出来る。さあなにかという時に腰を抜かす。日頃は偉そうな事を言うておっても、いよいよの時には、腰を抜かすような信心じゃできん。ね。そういう時にそれをどっこいと、それを受けて立ち上がれる時に、私は力が頂けれると思う。守り守りの力によって、神のヒレイが違うのぞと。
その力によって、神様のごひれいが違うてくるので御座いますから、お互い私の夢の中に、私自身の姿というものを、見せて頂いた様な気がするのですけれどもです、それこそびっくりして、腰抜かさんばっかりの、びっくりしちゃおるけれども、また恐がりながらでも行って、そのやらせて頂く、やっとかっとおかげを頂いておったと、言う様な感じなんですけれども。
そこにはそれこそ大水でその家の半分が、えぐり取られておると言った様な、その状態の家にいって、大水というのはおかげの頂きすぎという事でしょう。ね、それがそのそういう例えば困った事になっておられると言った様な人達が沢山あろうと思う。世の中には。ね、そういう時にはやはり悲鳴を聞く様なものですから、ね、それでそこを逃げ出す様な事じゃなくて、そこに私は入っていけれるだけの勇気を一つ頂かせてもろうて、おかげを頂かなきゃならんと思うですね。
どうぞ。